「チ。-地球の運動について-」について
私は、アニメのチ。を見た。最初に見たのは昨年だった気がする。
第1話を見て長らく見ていなかった。
マンガで話題になっていたのは知っている。
ただ、時期を逃して一度も読んでいない。
それが、強制的なセルフメンテナンスデーにおいて
何かに導かれるように視聴を再開した。
この物語の時代について
アニメ「チ。-地球の運動について-」の舞台は、15世紀のヨーロッパだ。
コペルニクスが地動説を発表したのが1543年。ガリレオ・ガリレイが地動説を支持して宗教裁判にかけられたのが1633年。「チ。」の物語は、そのコペルニクスよりさらに前——ガリレオの約100年以上前の時代を描いている。
この時代、「地球が太陽の周りを回っている」という考えは、単なる学術的な異説ではなかった。教会の教義に反する「異端思想」であり、それを研究しているだけで拷問を受け、火あぶりにされる時代だった。
作品の舞台は「P王国」という架空の国。登場人物もほぼ全員が架空の人物だ。でもだからこそ、この物語は「史実」ではなく「あり得たかもしれない人間の話」として、より深く胸に刺さる。
地動説を命がけで守ろうとする者たち。そしてそれを仕事として追い続ける異端審問官。彼らは全員、自分の「正しさ」を信じて生きていた。
その中で、私が最後まで目を離せなかったのは——ノヴァクという男だった。
ノヴァクという人物に惹かれた理由
正直に言おう。私はああいうキャラクターが好きだ。
気だるげで、飄々としていて、熱狂しない。真正面から感動を語る主人公たちとは対照的に、斜に構えたような態度を崩さない。でもその内側に、確かに何かを抱えている。
ツンデレ、と言ってしまえば簡単かもしれない。 でも私はそういう人間を「純粋な人」だと思っている。感じたことをそのまま出せないのは、照れや不器用さの裏返しだ。感情を直接表現できる人より、むしろ内側に豊かなものを持っていることが多い。
ノヴァクもそうだった。異端者への「痛み」を感じながら、それを「面倒くさがって無視した」と最後に告白する。感じていなかったわけじゃない。感じていたから、無視しなければならなかった。
そして「能ある鷹は爪を隠す」という点も、私がノヴァクに惹かれた理由のひとつだ。元傭兵としての身体能力、鋭い索敵能力、そして用意周到な判断力——教会の周囲に事前に酒を撒いておくような静かな有能さ。それを誇示しない。淡々とこなす。
派手に輝かない人間の、静かな深さ。 そういうものに、私は弱い。
ハッピーエンドを信じながら見ていた
私はハッピーエンドが好きだ。
だからこそ、この物語を見ながらずっと、どこかで可能性を信じていた。
ノヴァクとヨレンタが再会できるんじゃないか。娘だと気づいて、言葉を交わせるんじゃないか。何らかの形で理解し合えて、父と娘として——せめて最後だけでも——繋がれるんじゃないか。
すれ違うたびに、まだ間に合うと思っていた。
その「心の救済」を、ずっと待ちながら見ていた。
結果として、言葉による再会は来なかった。でも最後のあの場面——爆発で飛んできた腕に、かつてヨレンタが使っていた手袋をはめると、ぴったりと合った。
言葉はなかった。確認もなかった。でも確かに、何かが届いた。
「間に合わなかった」と「届いた」が、同じ瞬間に起きていた。ハッピーエンドとは言えない。でも完全なバッドエンドでもなかった——そう思いたい自分がいる。
「痛みだ」という告白
炎に包まれる教会の中で、瀕死のノヴァクの前にラファウの幻影が現れる。
ノヴァクはラファウに語りかける。
「私は本当は君に思ってたことがあるんだ。しかしそれは、君ら異端には感じてはいけない感覚だ。だから忘れたふりをして生きてきた」
そして続ける。
「痛みだ。あの時君の選択を見て気の毒に思った。死を選ぶな。自分の信念や他人の信仰のために命を落とすには若すぎる」
「あれは神から与えられた最初で最後の機会だったのかもしれない。でも、その感情を面倒くさがって無視した。だからやっぱり私は、悪役なんだ」
「感じてはいけない感覚」は、美しさへの共鳴でも、知的な感動でもなかった。若い命が失われることへの、シンプルな痛みだった。
これが、ある意味で最も恐ろしい。
悪意があったわけじゃない。痛みを感じる心は、ちゃんとあった。でもその感情を「面倒くさがって無視した」。
それが積み重なって、何人もの命を奪う結果になった。
これが「悪の凡庸性」というものだ。哲学者ハンナ・アーレントがナチスの戦争犯罪を分析して提唱した概念——巨大な悪は特別な怪物ではなく、ただ「感情に蓋をして仕事をこなす普通の人間」によって行われる。作者の魚豊氏も、ノヴァクの人物造形にアドルフ・アイヒマンの影響があったと語っている。
登場人物たちはそれぞれ、自分の「正義」に殉じた。地動説を信じた者は真理のために命を懸け、ノヴァクは秩序を守るために異端者を追った。どちらが正しいかを議論する余地すら、その時代にはなかった。
それぞれの正義が、それぞれの悲劇を生んだ。
父親として、ノヴァクを見ていた
私がこの物語に感情移入していたのは、議員としてでも、会社員としてでもなかった。
もっとシンプルに——父親として、ノヴァクを見ていた。
「死を選ぶな、若すぎる」という痛み。これは異端審問官の感想ではなく、子を持つ父親の感覚として出てきた言葉だと思う。
ノヴァクは娘のヨレンタを深く愛していた。でもその愛は、不器用だった。直接伝えられなかった。仕事の論理と、父親の感情の間で、何度も何度も、間に合わなかった。
そして、ここで想像が広がる。
ノヴァクが若いラファウに感じた痛みを、私自身の親や祖父母も、私に感じていたのかもしれない。
私が何かに夢中になっていたとき。無茶をしていたとき。あるいは今、議員と会社員を兼業しながら地域のために走り回っているのを遠くから見ながら——口には出さなくても、「気の毒に思う」「心配だ」という感情を、ずっと持っていたのかもしれない。
ノヴァクはその感情を「面倒くさがって無視した」と後悔した。でも私の周りの大人たちは、面倒くさがらずに、ただ静かにその痛みを抱えていてくれたのかもしれない。
そう気づいたとき、この物語は15世紀の話ではなくなった。
自分を見ていた人たちの目線が、急に身近になった。
ノヴァクは「もう一人の主人公」だった
「チ。」はラファウを起点に、地動説への感動をリレーしていく群像劇だ。しかしその群像劇を最初から最後まで貫いていたアンカーが、実はノヴァクだった。
物語の幕開けはノヴァクの拷問シーンだ。そして幕を閉じるのも、ノヴァクの死だ。
フベルトの形見である球体のネックレスは、感動のバトンの象徴として、最後の最後にノヴァクの手に渡る。純粋さを剥き出しにして真理を追い求めた者たちのリレーの、最後の受け取り手が——あの斜に構えた、不器用な父親だったのだ。
「ああ、俺はこの物語の悪役だったのか……」
この台詞を聞いた瞬間、私は画面から目を離した。
悪役だと気づいた人間は、もう悪役ではないのかもしれない。でも気づくのが、遅すぎた。
おわりに
「チ。」を見終えて、しばらく動けなかった。
ノヴァクが最後に神に祈る場面——「娘の過ちはすべて私の勘違いが原因なのです。全て私の過ちなのです。どうか、どうか、娘を天国へ」——を見て、私は泣いた。
ハッピーエンドではなかった。再会も、和解も、言葉による理解も、来なかった。
でも手袋はぴったりはまった。それだけで、この物語は十分だったのかもしれない、とも思う。
純粋な人間は、不器用にしか愛せない。 ノヴァクはそういう男だった。
そしてきっと、そういう人間が——歴史には残らない場所で——この世界を支えてきたのだと思う。
アニメ「チ。-地球の運動について-」はNHKで全25話が放送(2024年10月〜2025年3月)。NetflixおよびABEMAで配信中。原作は魚豊による漫画(小学館・全8巻)。


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