駅前に立つ人
JR武豊駅の改札を出ると、台の上に一体の胸像があります。
毎日のように前を通っているのに、立ち止まって見上げたことのある人は、どれくらいいるでしょうか。
この像の人は、高橋煕(たかはし ひろし)さん。
武豊駅の駅手でした。先月の9月25日は、高橋さんが亡くなって73年目の日でした。
今日はこの人のことを書いておきたいと思います。
昭和28年9月25日の夕方
1953年(昭和28年)9月25日、台風13号が志摩半島を抜け、夕方6時半ごろに知多半島へ上陸しました。東海・近畿を中心に、死者・行方不明者が約480人にのぼった台風です。
武豊では塩田地区の堤防が切れ、高潮で武豊〜東成岩間の線路が水に洗われました。そのとき、東成岩駅を武豊行きの旅客列車がすでに発車していました。
無線も携帯電話もない時代です。駅と列車をつなぐ手段は途絶えていました。
列車にこの先の危険を伝えられるのは、走っていく人だけでした。
高橋さんは発煙筒を手に、暴風雨の中を東成岩方面へ線路を走りました。
そして、迫ってくる列車に向かって振り続けました。
機関士はその光に気づき、水際の手前で列車を止めて東成岩駅へ引き返しました。
Wikipediaによれば、止まったのは水際の約400メートル手前、乗っていた乗客はおよそ30人です。
高橋さんは、武豊駅に戻ってきませんでした。
翌日の午後に見つかったとき、両手で信号灯の容器をしっかり抱えていたと伝えられています。
全国からの募金で建った胸像
この出来事は全国に報じられ、高橋さんは「国鉄職員の鑑」とたたえられました。
ちょうど1年後の1954年(昭和29年)9月25日、武豊駅前に胸像が建てられます。
お金を出したのは、全国の国鉄職員と、地元の小中学生たちでした。
駅前には、当時の愛知県知事・桑原幹根が文を撰した「高橋煕君顕彰記」が残されています。
堤防が切れて線路が洗われたこと、高橋さんが濁流と暴風雨をおかして危険を知らせたこと、そのおかげで多くの命が救われたこと。
その尊い犠牲的行為に心を打たれた有志が胸像を建て、功績を永遠に伝える、と結ばれています。
町の公式ホームページにも「現在も武豊駅を見守っています」とあります。
73年たった今も、あの日と同じ駅の前に高橋さんは立っています。
像の前で考えたこと
高橋さんは英雄になろうとして走ったわけではないと思います。
目の前の列車に、この先は危ないと伝えなければならなかった。
駅手として、その仕事をやり切ろうとしたのだと思います。
自分の身を犠牲にして誰かを救うことは、人間のもっとも尊い行いのひとつだと思います。
顕彰記もまた、高橋さんの行いを「尊い犠牲的行為」と刻んでいます。
なぜ尊いのか。
人は誰でも、自分の命がいちばん大切です。それが生き物として自然なことです。
その自然に逆らって、名前も知らない誰かのために一歩を踏み出す。
そこには損得の計算がありません。
見返りも、称賛も、本人が受け取ることはできないのです。
高橋さんが走ったとき、列車に乗っていたのは知り合いではなかったはずです。
それでも、暴風雨の中を線路の先へ向かった。
自分の安全よりも、そこにいる人たちの命を先に置いた。
その判断に、人が人を想う心のいちばん純粋な形を見る気がします。
「伝える手段がないとき、どう伝えるか」
73年前の武豊で突きつけられたこの問いは、今も古くなっていません。
停電で情報が届かない、連絡がつかない。災害のときに起きることは、形を変えて今もあります。
町の議員として、防災の仕組みを整えることは自分の仕事です。
でもその前に、この町で実際に起きたことを知っておくことが出発点だと思っています。
高橋さんの話は、教科書の中の話ではなく、毎朝通る駅前の話です。
もう一つ心に残ったのは、像を建てたお金の一部が、当時の小中学生から集まったことです。
子どもたちが自分の小遣いを出して、この人のことを忘れないようにしようとした。
その思いが、70年以上この場所を守ってきたのだと思います。
正直に書くと、自分が同じ場面にいたら、高橋さんのように走れるかはわかりません。
たぶん、足がすくむと思います。
誰もが高橋さんのようになれるわけではないし、命を投げ出すことを人に求めるべきでもありません。
大切なのは、同じ行動ができるかどうかではなく、その精神を忘れないことです。
自分のことより、誰かのことを先に考える。
その心を、日々の小さな場面で少しずつでも持ち続けること。
困っている人に声をかける、気づいた危険を誰かに伝える、面倒でも手を貸す。
高橋さんが走った線路の先は、そういう日常の延長にあるのだと思います。
胸像は、ほかの誰でもない、残された私たちのためにあるのだと思います。
今、この武豊町があるのはこうした先輩たちのおかげです。
あの日の行いを讃えるためだけでなく、この尊い精神を忘れるなと
毎日駅前で語りかけているのだと思います。
今度武豊駅を使うとき、少しだけ足を止めて、高橋さんを見上げてみてください。

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