81年前、窓が、揺れたらしい

たいけんしたこと

八月九日です。

うちは、お盆をわりと大事にしている家だと思います。なぜだろうと考えたことがあって、たぶん祖父母の影響だな、と思い当たりました。

祖父母は長崎県の五島列島の出身です。

小さいころに、こんな話を聞いた記憶があります。長崎に原爆が落ちた日、窓越しにきのこ雲が見えた。窓が揺れた。

五島から長崎の市街地までは、直線でだいたい百キロ離れています。名古屋から浜松くらいの距離、と言えば伝わるでしょうか。それだけ離れた島から、雲が見えた。窓が揺れた。子どもの僕は、その話をどう受け止めていたのか、正直もう覚えていません。ただ、聞いたという事実だけが残っています。

そして、大きくなるとそんな話もしなくなるものだよね、とも思います。

聞き直すこともしなかった。どこにいたのか、何時ごろだったのか、誰と一緒だったのか。

祖父母は被爆者ではありません。国が定める被爆地域の外にいた人たちです。何かを訴えたり、体験を語り継ぐ活動をしたりもしていませんでした。ただ、あの日を遠くから体験した一人だった。それだけです。

それだけなんですが、その「それだけ」が、孫の僕のところまで届いている。


武豊町にいると、五島にルーツのある方に、意外と出会います。

偶然TACOPAのメンバーにも二人いました。ご本人ではなく、お父さん・お母さん、おじいさん・おばあさんの代が五島の出身、という方です。知多半島と五島列島。地図で見ると遠いのに、こうして同じ町で顔を合わせている。

長崎と聞くと、どうしても本土の、爆心地のまわりの惨状が浮かびます。それは当然だと思います。

でも、離島には離島の原爆があったのではないか。最近、そんなことを考えます。

見えてしまった側。音と揺れだけが届いた側。島から本土へ働きに出ていた家族の安否がわからないまま、何日も過ごした側。指定された地域の線の、外側。

これは僕の勝手な想像で、裏づけがあるわけではありません。もし五島のことをご存じの方がいたら、教えてほしいです。


五島のお盆は、にぎやか。

お墓に提灯を飾って、明かりを灯す。大人はお墓の前で宴会をやって、子どもたちは花火をやる。長崎県では珍しくない風習で、爆竹やロケット花火を上げる地域もあります。中国との交流が長かった長崎に、先祖をにぎやかに迎え、にぎやかに送るという文化が入ってきたのだと言われています。

静かに手を合わせるお墓参りに慣れた目には、ちょっと驚く光景かもしれません。

我が家は愛知県にいながら、二十年以上、それをやってきました。美浜町にあるお墓で、提灯を灯してきた。遠くに海の見える場所。五島を感じながら、というのが正しいと思います。

今は、回忌の年にしかやっていません。


こどもには、たぶん理由まで説明していません。お墓で提灯をつけた、花火をした、親戚が集まってうるさかった。その程度の記憶しか残らないかもしれない。

でもそれでいいのかな、とも思います。

人類が忘れてはいけない戦争の悲劇と、みんなで過ごした楽しい記憶が、同じ場所に置いてある。祖父母から僕に渡されたものも、たぶんそういう形をしていました。きのこ雲の話と、提灯の明かりが、切り離せないまま一緒にある。

百年先のたけとよ、とよく書いています。

百年先に、この町でお墓に提灯を灯している家が一軒でも残っていたら、その人はきっと、五島のことを少しだけ知っているんだと思います。

今年も、お盆が来たな。

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