前回、桶狭間の戦いが武豊の「近所」の出来事だったという話を書きました【①記事へのリンク】。今回はその6年前にさかのぼります。舞台は武豊のすぐ北、いまの東浦町です。
今川の手が、知多半島に伸びてくる
桶狭間に先立つ1550年ごろ、尾張と三河の境目では、鳴海城・大高城・沓掛城といった城が次々と今川方についていました。今川義元の勢力は、じわじわと尾張へ、そして知多半島へ伸びてきます。
このとき知多半島側で織田方として踏みとどまっていたのが、緒川城(いまの東浦町)の水野信元です。のちの徳川家康の伯父にあたる人物——家康の母・於大の方の兄です。今川と織田の境界に領地を持ちながら、水野氏は織田方についていました。
- 参考:東浦町観光協会「村木砦の戦い」 http://www.higashiura.or.jp/kanko/murakitoride/index.html
村木砦の戦い——信長、はじめて鉄砲を使う
天文23年(1554年)、今川義元は緒川城を攻略するため、その北の村木(いまの東浦町森岡)に砦を築きます。窮地に立った水野信元。これを救援に来たのが、若き日の織田信長でした。
このときの信長の動きが、なかなか大胆です。陸路は今川方に抑えられていたため、舅の斎藤道三に留守を頼んだうえで、熱田から海路で知多半島に渡り、緒川城に入ったとされます。そして村木砦への攻撃で、信長は初めて鉄砲を使ったと言われています。この戦いの様子は『信長公記』が伝えていて、東浦町では今も史跡としてゆかりの地が残されています。
- 参考:東浦町観光協会「歴史散策」 https://higashiura-kanko.com/history/
結果は織田・水野方の勝利。今川の知多半島攻略はここでいったん食い止められました。そして6年後の桶狭間で、義元の尾張侵攻そのものが終わりを迎えることになります。
「境目」は、半島を走っていた
村木砦の戦いが教えてくれるのは、織田と今川の境目が、知多半島の上を走っていたということです。海の向こうの偉い人たちの戦争ではなく、この半島の城主たちが、どちらに付くかを現実に迫られていた。緒川の水野氏は織田を選び、それが結果として家康の天下にまでつながっていきます。
では、そのころ武豊はどうだったのか。
実は武豊にも、城がありました。城主は、水野の南進と今川の脅威のはざまで揺れた豪族です。その城の跡は、いまでもある場所から見ることができます——JR武豊駅のホームです。
次回、いよいよ武豊の城、長尾城の話です。

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